2016年06月07日

女王の掌

キップリングの『ご褒美と妖精』という作品のなかで、エリザベス女王(1世)の話に次のような一文がある。

'Did her ministers ever open Queen Elizabeth's letters ?' said Una.
'Faith, yes! But she'd have done as much for theirs, any day. You are to think of Gloriana, then(they say she had a pretty hand), excusing herself thus to the company - - for the Queen's time is never her own .

「臣下たちは女王の手紙を開けたのですか?」ユーナが尋ねた。
「間違いなくそうです。ですが彼女の方も、臣下の手紙を開けるのは日常茶飯事だったかも知れません。グロリアーナが(彼女は手(文字)が美しかったという話です)女王の時間はすべて公用だからと言い訳しているところを想像してみて下さい」

このなかの"they say she had a pretty hand" の意味が良く解らなかったので、あるサイトで相談してみた。大方は pretty handは字が綺麗という意味だとする方が多かった。
確かに女王の筆跡は美しい。
http://www.jgregorywilson.com/liz1.jpg

しかしAlan Carmackという方が非情に興味深い指摘をしてくれたのでここで紹介します。

「女王はポケットから本物の手紙を出し、それを腕の長さにまで広げた。それは村の電話局で歳を召した女性職員が電報を読む時のような仕草であった」という文章がその後に続いています。
私たち英語圏の人間は"her hands"という言葉で何を言いたかったのかを想像します。女王の筆跡も知らず、筆跡の意味だと取らない人が、それを女王の実際の手のことを言っていると考えても理不尽ではありません。多分彼女は言い訳をする時、手を使った素振りをしたでしょう。その時、手袋など手を隠すものを身に付けていなければ、その女性がやって見せたように、手紙を読む時に、手がはっきりと見えたはずです。この文の前でも「彼女は宝石で飾られた長い手を高く掲げた」とあります。
しかし"hand"が筆跡のことだという意見もあり、それを考えれば私の解釈が唯一のものでも、最も確実なものでもないと思われます。しかし私たちは本を読む時、自分たちでよく意味を想像するものです。そしてそれは作者が意図したものとは異なるかも知れません。ですが英語がネイティブの人間でも古典を読む時には、おおいに推測を働かす必要があることは覚えておいて下さい。

確かに「女王の掌」と取った方がキュートで印象的かも知れません。
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2014年03月22日

ヘレン・ケラーのこと

新聞広告欄で「ヘレン・ケラー、スウェーデンボルグを語る」という副題を読んで「私の宗教」を購入し早速読み始めた。読む前からスウェーデンボルグはやはり誤解されていると思ったがこの本を読み始めて確かにそうであることが解った。彼の著作は、カントのようにと言って良いかは解らないが、興味本位ではなく信仰の支えとして最も真摯に向き合うべきものだろう。
ヘレン・ケラーは恩人ヒッツ氏のおかげでスウェーデンボルグと出会い、自分との同類性を感じた。そして彼女の境遇だからこそ真に感じられる共感を伝えている。素晴らしい本に出会えて良かったと思っている。今読み進めているところで非常に感心した一節がある。それは聖書について述べている部分である。
「文字で書かれていることのなかには、私たちの目には見えないけれども私たちと一緒になって神の真理を読み取ったり考えたりする天使たちの高い知性に見合った霊的意味が込められている」
ここでは私たち読者の背景で霊的意味をつなげようとする存在の姿が仄見える。他のところでヘレン・ケラーは、同じ真理であっても、人によって伝わる光の色合いが変わってくると言っている。この指摘も心を打つものだ。途中まで読んで原文も
並行して読もうと一旦本を閉じることにした。それは訳がどうこうではなく引用されているスウィンバーンの詩などに訳文ではなく接しながら読み進めたいと思ったからだ。ボルヘスの詩の講義の時のように訳文を参照しながら読もうと思う。つまり二つの色を対比させながら先に進むということだ。本のなかで読者を言葉の霊的意味につなげる天使がいるのだから、本に未来の読者を結びつける役割の天使もいるはずだ。その天使に深い感謝を捧げなければならない。
 
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2013年08月10日

鏡の中の精霊

ダンセイニ卿の文章に接する快楽のひとつに、心惹かれるイメージを持つ言葉に出会うことがある。 そしてさらにその歓びを増す要素がある。それは、その言葉が使われた文章の意味が判らなかったり、不明瞭である時間が長いことなのである。その間読者はイメージに導かれて様々な方向に想いを巡らす、つまり思念の旅ができるということなのだ。ナンシー・プライスの作品『丘にかかる影』のダンセイニ卿の序文そのような文章があった。
You sometimes see people prominent in the public eye photographed far from the main resorts of the public, perhaps beside a river, about to take their favourite horses in a row.
Here, however, we have no mere photograph, but the spirit seen in a mirror.The mirror is the waters of West-morland, held up a long away and shining through the memory.
 まずこの文章で気になるイメージは馬を並べて河辺を行く人たちの写真に精霊も見えるという件だ。その精霊は鏡のなかにいるという。私はこの文書を何回か呼んでは本を閉じ、空想を楽しんだ。(ダブリンにあるAEのアパートの部屋の鏡は精霊の出入り口であるとMy Lrelandか何かで読んだことを思い出した)そしてこの鏡とはウェスト・モーランド地方の水面であるという。その水面には光が散乱しているように受け取れる。しかしダンセイニ卿がそれをthe sprit と言うには相応の経験的な根拠があったのだろう。私にとって今は光の散乱かも知れないが、いずれこの文章を通して異なった心象に出会えるかも知れない。いずれにせよこの一連は高貴な文章である。最初の文章の趣旨は、高尚な人間が(あるいは人が高尚な様子で)写真に収まるのは街中ではなく、そこから遠方の地であるということだろう。そして水面の後の件で、それがはるか遠く記憶に輝くものであることが分かる。ちなみにこの作品は都会に住む人々こそが読むべきであると言う。それは、丘に吹く風のような永遠のものと都会の路面電車のような過渡的なものを結びつける役割をするという。そして次のような結論には、白扇を掲げて賛同の意を評したいのだ。
; and when that link is broken it is not the hills that pass.
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2013年06月15日

『園丁』のこと

この記事はキップリングの短編「園丁」の結末について触れられています。

ダンセイニ卿がUCLAの講義で今世紀最大の作家がキップリングであると言った時、それは彼がキップリングを一流の幻想作家として認めた上での発言だったと思うのだ。そしてキップリングは現実の出来事と登場人物の台詞だけで、幻想を描写せずにそれを見事に表現できた作家であると言えるだろう。ボルヘスもキップリングを愛して止まない。「バベルの図書館」の序文で彼はこう言っている。「本巻のために選んだ作品のうちで、おそらく私がいちばん心を動かされるのは『園丁』である。その特徴のひとつは作中で奇跡が起こることにある。主人公はそのことを知らされていないが、読者は知っている。状況はリアリスティックなのに、語られる話しはそうではない」この作中の奇跡はヨハネ伝の園丁の件がもとになっている。

二十章十五節
イエス言いひ給たまふ『をんなよ、何ぞ泣く、誰を尋ぬるか』
マリヤは園守ならんと思ひて言ふ
『君よ、汝もし彼を取去しならば、
何處に置きしかを告げよ、われ引取るべし

 主人公のタレル婦人は戦死した甥の墓を見舞い、園丁と出会う。そして読者に主人公に奇跡が起きることを知らせる場面は、その前に園丁が登場する場面である。郵便局長の奥さんが司祭館の園丁に向かって「今度はタレルさんの番ね」と言う。それは死亡通知が届いた順であるが、古の儀式が行われる順番であることが暗示されている。

By this time the village was old in experience of war, and, English Fashion, had eveloved a ritual to meet it.
「この頃までには村人たちも戦争の経験を積み、英国風にそれに対処する儀式を整えて来た」土岐氏訳

これは意味深い一文である。とくにold in experienceという言葉からは、戦死者家族の魂を救済するための古代からの儀式の順番が次はタレル婦人であることが仄めかされている。そしてもうひとつ不思議な会話がある。それは最後の墓場の場面だ。甥を探しに来たという婦人に園丁が言う。

The man lifted his eyes and looked at her with infinite compassion before he turned from the fresh-sown grass toward the naked black crosses.
"Come with me", he said, "and I will show you where your son lies."

 これはとても清らかな響きを持った文章だ。しかしなぜ園丁は甥を訪ねてきた婦人に息子と言ったのか。それについて土岐氏は全能者である園丁は主人公の嘘を見抜いていたと指摘する。確かにタレル婦人がフランスの転地から甥を連れて帰って来たという話しも思い当たるし、甥との会話で何度か婦人が告白しようとして続きを言えないと思われる場面もある。そしてこの巡礼の旅で出会った婦人も嘘をついており、真実の自分の身の上を主人公に告白する。しかしこの最後の場面の儀式を作者が英国風という限り、道連れの婦人の魂も奇跡に立ち会ったと解釈するのはあまりに飛躍しているであろうか。
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2013年05月11日

翻訳について

ボルヘスの詩の講義を読んでいてとても印象に残った一文があった。それは「言葉の調べと翻訳」という章にあるのだが、そこでは翻訳の不可能性について述べているのかと思っていたら、意に反してその可能性を指摘する内容であった。それはステファン・ゲオルグによるボードレールの「悪の華」のドイツ語訳が原作を凌ぐという趣旨の文章である。

I think that if we compare them line by line, we should find that Stefan George's Umdichtung(this is a fine German word that means not a poem translated from another, but a poem woven around another; we also have have Nachdichtung, an "after poem", a translation; and Übersetzung, a mere translation)----I think that Stefan George's translation is perhaps better than Baudelaire's book.

ここでは翻訳にあたる3つのドイツ語の接頭詞の意味を確認すべきだろう。まずÜbersetzungのÜberは(trans-)で単なる移し替えの意味だ。それに対し UmdichtungのUmは(周囲へ)で原作を核として周囲へ新たに何かが編み上げられることを意味する。もうひとつのNachdichtungのNachは(after)で翻訳による作品の変容を予感させる。 この翻訳の新たな解釈は新鮮であった。UmdichtungとNachdichtungの場合はダンセイニ卿ならば魔術の一種と言うかも知れない。ドネラン講義もこのボルヘスの講義もそうだが、講演者は引用する芸術家の霊線を強く引き寄せ読者につないでいるように思えてならないのだ。
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2013年04月14日

森と童話

ダンセイニ卿の童話戯曲の訳を進めている。この作品も舞台はケントである。ケントはロンドンから近いが、ある意味、ケルトの古い霊性の発露している近代文明への前線基地ではないかと思ったりする。(行ったことがないのではっきりしたことは言えない)「クロウタドリの歌」でも鳥が合唱するのはケントの丘の斜面である。そのケルトの古い霊性については未谷さんが「ケルト固有の童話空間」と表現したが、その表現は的を得ていると思う。そのような童話はドーバー海峡を渡ったお隣の国には見いだせないように思うのだ。たとえば「星の王子様」は童話ではなく寓話である。それが気になってコクトーの童話作品を注文したが、それも「恐るべき子供たち」から察するに楽しい子供話しであろうと思う。いずれにせよそのケルトの童話性は私たち日本人と相性が良いようであり、時に人を捉えて離さない。たぶんシッチンだったと思うが、オカルト研究家の本に古代ケルトと日本の縄文人が交流していたという記事があった。真偽はともかくもそれを浅草の友人に話すと、答えは「遠隔地でも、同時に同様の文化が発生し、存続したのであれば、それも交流と言ってよい」であった。それは日本がまだブナなどの広葉樹の森に覆われていた時代の話しである。ダンセイニ卿の「ドワーフのホロボロスとホグバイターの剣」にも深いブナの森が登場する。森の魔女の家に行くには樹が深く茂る方をめざし、最後に樹々が密集して生え、人ひとりがやっと通れるようなところに魔女の家がある。他にもこの樹は多くの作品に登場する。ケルトと日本をつなぐものに、その広葉樹に対する皮膚感覚があるように思ったのは青森の森を歩いた時であった。特にブナは不思議なパワーを持った樹であり、水源となるばかりか、人の想いやファンタジーも涵養しているのではないかと想像させられた。そのような森が少なくなれば人がファンタジーから遠ざかっていく。「街より森の方がきれいだ」とは森の外を旅しない小人ホロボロスの台詞である。
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2013年03月03日

グリムとアンデルセンから

「クロウタドリの歌」を訳し終えて"The Old Folf of the Centuries"の訳を始めた。これは魔法使いによって蝶に変えられてしまった少年の物語なのだがとてもおもしろい。ずっと少年少女向けに最近関わっていて思い出した話がある。それはブラッドベリが聞いていたUCLAでのダンセイニ卿の講義のことだ。ダンセイニ卿は今世紀最も優れた作家は誰かという問いに長い沈黙の後にキップリングだと答えたという。これにはさすがに会場がざわめいたようだ。今はこの答えに深く納得がいくのである。キップリングを愛するダンセイニ卿の読書のルーツを遡っていくとグリムとアンデルセンにたどりつく。その幼い頃の読書と実体験のエッセンスが輻射として後年の少年少女を扱う作品に照り映えているのだろう。そのような作品ではダンセイニ卿の筆のバイブレーションが高いように思うのだ。なかでも知恵遅れの少年と少女の物語「ロリーとブランの旅」は人はあまりそう言わないが、傑作だと思う。少年少女向けは入手できるものをまとめて発表したいと思っている。あわせて翻訳中の詩に「パンジー嬢に捧げる詩集より」という記載がある。そのような詩集は存在しないのだが(あるいは私家版がのだろうか?)、自伝にもあるようにダンセイニ卿は幼い甥や姪のために折にふれて多くの詩を書き送ったのは確かだろう。それらの遺稿が世に現れるよう密かに念じているのだが・・・

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2013年01月14日

近況

最近は手製本に凝っている。大きなことを言えばウィリアム・モリス以前のようにというのが目標です。写真はThe Gods of Peganaの初版もどきの文庫手製。右の鼓手スカールのイラストはElkin Mathews/1905年の真似。左はJOHN W.LUCE&COMPANY/1916年版の真似。中味はハヤカワ文庫版です。

くわしくはうしとらさんのページが参考になります。

hon1a.jpg

hon2 b.jpg
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2012年12月15日

ペガサスと蝶

戯曲のThe Old Folk of the Centuriesを読み終えた。少年が魔法使いによって蝶に変えられてしまう。その少年と少女の物語。とてもおもしろい作品であった。「私の林檎を食べた者を蝶に変えた私を悪い魔女と言うのなら、多くの人間を都会に閉じ込めたあの者たちはいったいどうなのか?それを私は本当に知りたいよ」という魔女のセリフが心を打った。ロリーとブランもそうだが、少年少女の主人公の作品では作者の筆の伸びが違うと感じる。To Awaken Pegasusの詩集も読んだ。この作品も素晴らしい。本当にペガサスに乗って空を飛んでいるようである。ダンセイニ卿の詩は美しい情景を想起させるアロマを発している。また初期の短編を彷彿とさせる幻想的な物語詩もある。このようにあまり注目されない作品が素晴らしいのはうれしい限りだ。
posted by HI at 08:21| 東京 ☀ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月27日

近況

この一ヶ月はいろいろなことがあった。未収載作品は少しづつ集まっている。ヨシさんに問い合わせた作品は持っているということで送って頂いた。Pegana Pressのマイク氏ともやり取りが続いている。お互いダンセイニ卿を愛するがこそのコミュニケーションに思える。『ドワーフのホロボロスとホグバイターの剣』の私家本は遅くとも年内には完成するよう準備を進めている。少年少女向けも作品が集まって来ている。純真な子供の目を通して描いた世界が書かれてある作品は素晴らしいものが多い。思い出せばロリーとブランも少年の無垢な目で捉えた世界の物語であった。
posted by HI at 12:22| 東京 ☁ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする